プロレスラー、ジャイアント馬場選手(以下敬称略)は知っていますか?
またどういうイメージでしょうか?
ものまねタレントが真似するジャイアント馬場のイメージが広く定着しています。
スローモーな動き、相手にチョップして「アポー」というコミカルな一連の流れ。
またテレビの中継で見たジャイアント馬場選手の16文キック、脳天唐竹割りなどを出すのですが、細い腕や遅い動きから見て、これがジャイアント馬場なのだと思い込んでいました。
しかし彼の若かりし頃の映像を一度見て下さい。
ジャイアント馬場選手が26歳の米国修行時代の映像です。これが肉体的に全盛期のジャイアント馬場選手です。
1964年のジャイアント馬場 (双葉文庫)でも触れられていますが、肉体的な全盛期は短く、30代半ばになると腕の筋肉が落ちてきてだいぶ細くなってきます。
この映像では胸板は厚く、腕は特別太いとは言えませんが、決して細くはありません。太ももも太く全身パワーのありそうな身体つきをしています。
動きも早く、私達が知っているジャイアント馬場選手の動きではありません。しかしこれが本来のジャイアント馬場選手なのです。
後に海外でも活躍するプロレスラーは出てきますが、未だにジャイアント馬場選手ほどプロレスの本場であるアメリカで認められた選手は出てきません。
それは当時の世界チャンピオンや一流レスラーの対戦相手になってメインイベントに出場するのは、プロレスラーとして稼ぎや名声のトップ中のトップでないと出場出来ませんでした。
それをプロレスラーデビューして3年目位のジャイアント馬場選手が成し遂げたのは、身体が大きいだけでなく、元プロ野球選手という並外れた運動神経がないと出来なかったことです。
経歴としての海外修行や野球選手だった事は知っていましたが、その凄さはこの本を見るまではプロレスファン歴40年の僕でも知りえませんでした。
この本の章に従って、あらすじと書評をしていきたいと思います。
ジャイアント馬場、本名馬場正平は1938年(昭和13年)1月23日に新潟で生まれました。
生まれた時は標準体重だったのですが、小学校5年生の時に急激に身長が伸び始めました。中学入学時には180cmを超えていたという事です。
幼少の頃からスポーツ万能で、野球、相撲、バスケットボール、水泳でも運動神経が抜群の万能選手だったようです。
高校2年生の時、足が大きくて馬場に合う市販のスパイクは無かったので、特注で野球部長が馬場の為に作ってくれました。
それまで我慢していた馬場は喜びました。それから野球に熱心に取り組み、投手として活躍しました。
その逸材のウワサを聞きつけ、読売ジャイアンツにスカウトされました。即座に高校を中退し、入団を決めました。
ここまで聞くとプロ野球になるまで順風満帆なようですが、スポーツするにもお金がかかるし、規格外の身体に合わせたユニフォームや道具も揃えなくてはなりません。
当時は戦後間もない時期。貧しい家庭が多かったこの時代ですから、馬場家も例外なく貧しかったはずです。
馬場選手は大人しい性格だったようなので、家庭の事情も知った中、親に野球道具やスパイクなど買ってとは言えなかったでしょう。
しかし才能あふれる人物は必ず誰か見てくれています。馬場選手も恵まれた体格と並外れた運動神経を廻りがほっとくはずはありません。
相撲でも、バレーボールでも身体が大きいほうが有利なスポーツはありますが、活躍している選手を見ていると大きさに見合った運動神経も兼ね備えていることが分かります。
馬場選手も後にプロレスラーとして活躍しますが、実はプロ野球の世界でも活躍されました。
しかし読売巨人軍というステイタスのある球団にとって、馬場選手の見た目、規格外の大きさは社風に合わなかったようで、指導者がその才能を1軍で使わなかったようです。
2軍でいくら活躍しても、1軍の試合でスポット的に活躍しても、1軍定着が許されませんでした。それは人間関係による弊害とも言えます。
現代ならば実力を素直に評価してくれると思うので、もしも若き日の馬場選手が1軍に用いられたならば、きっと球団史に残る名選手となった事でしょう。
あとは運にも左右されます。選手として一番鍛えなければならない時期に、脳腫瘍になってしまったり、大事な肘の腱を風呂場のガラス戸に倒れて切断してしまったり、運に見放された時期もありました。
そこで腐らずに、プロレスラーを目指すという頭の切り替えが、プロレス史に残る偉大なレスラーとしてジャイアント馬場が生まれたのは塞翁が馬ということわざ通り、偶然とも必然ともいえる運命だったと思います。
日本プロレスの父ともいえる力道山に馬場選手は入門します。
力道山というレスラーを知らない方の為に解説すると、当時は街頭テレビと言って、街中の一ヶ所にテレビが設置されていました。
当時は高価なテレビを一般家庭で買える時代ではなかったので、その高価なテレビは街角の高い場所に設置して、通行人がそれを見物して光景を、当時を紹介する映像で見ました。今で言うオーロラビジョンのようなものでしょうか?ただしその該当テレビは21インチ位の小さなサイズのテレビだったので、遠くから見た人には小さな力道山が何とか見られる状態だったと思います。
その街頭テレビの主役が力道山でした。憎き外国人レスラーを必殺技の空手チョップでなぎ倒す姿に時代背景も合わせて熱狂していました。
いわば一プロレスラーの枠に収まらず、長嶋茂雄、大鵬、美空ひばり達と並ぶ、国民的なスターでした。
同期には同じく国民的なスターとなったアントニオ猪木がいます。しかし同期といっても馬場選手が22歳、猪木選手が17歳と5歳年齢が違うので、青年と少年の違い位年が離れていましたので、恐らく猪木くん、馬場さんという年齢による上下関係があったと思います。
また入門した若手といっても馬場選手はプロスポーツの経験があるので、入門当初から給料が支払われていました。それに対し、猪木選手はブラジル移民としてコーヒー豆の栽培、収穫という過酷な労働環境に耐えていたとはいえ、日本における社会人デビューに等しいので、小遣い程度のものはあったにせよ、ほぼ無給で修行していたと思います。
1960年に馬場選手はデビュー戦で先輩と戦い、見事快勝。そのまま出世街道を進み、翌年の1961年には海外修行を行います。この当時の海外修行はスター候補が通る道でした。
この時に一緒に海外へ行ったのがマンモス鈴木という選手で、風貌は毛むくじゃら、身長も193cmと大きく、いかにもプロレスラーらしい風貌でした。
その為、どちらかといえば馬場選手よりもマンモス鈴木選手の方が期待されており、アメリカのプロモーターもマンモス鈴木選手の方を売り出そうとしていたようです。
しかし、このマンモス鈴木選手は気が弱いのと、あまり運動神経が良くなかったようで、2番手だった馬場選手の運動神経の良さに立場が逆転しました。
馬場選手は2年目の新人ながら、観客が何を望んでいるか、相手選手の良さを引き立たせながら試合を組み立てられかというプロレス頭の良い選手でした。
プロレス先進国だったアメリカでは、腕っぷしの強い選手がトップを取るのではなく、観客をいかにヒートさせ、いかに満足させられるか、いわば会場に客を呼べる選手がトップを取る構造になっていました。いわゆるエンターテイメントの要素が当時からあったという事です。
この構造は今も変わりません。日本でも客を動員できるトップレスラーが居てこそ、その団体が運営出来るのですが、そこには勝負論、実力論も合わせているのが日本独特のプロレス界になっていました。
今でこそ日本のプロレス界もエンタメ要素がふんだんに盛り込まれてくるようになりましたが、エンタメ要素、突き詰めれば勝敗があらかじめ決められた展開プラス、ガチンコ要素も垣間見えないと、日本のお客さんも喜ばせない、楽しませられない難しさがあります。
馬場選手はこれらを新人時代にアメリカで体感できたからこそ、世界に通用する偉大なレスラーになれたのだと思います。これが日本でずっと修行していたら、日本の観客には喜ばせられたかもしれませんが、目の肥えたアメリカファンの前でメインイベントを張れる選手にはなれなかったと思います。
その修業時代、馬場選手が参考にした選手というのがバディ・ロジャース選手でした。映像は白黒ですが、髪の毛が金髪の選手です。
その頃のバディ・ロジャース選手は広いアメリカマットで最高権威であったNWAの世界チャンピオンでした。観客を興奮させる為に反則攻撃も繰り出し、ボディビルで鍛えた美しい肉体美から繰り出される多彩な技の数々に、会場のファンからテレビの前のファンまで多くの人物を興奮させるレスラーでした。
そのチャンピオンと新人の馬場選手は何度も戦い、そのカードは非常に人気で、何度も大きな会場を満員にさせました。その戦いの中で試合の組み立て方、観客を喜ばせる事を吸収したと思います。
その頃の馬場選手の年収は今の価値に換算すると、5億円以上に鳴ったということです。もちろん、マネージャーや取り巻き、日本にいる力道山にこれらのギャラも分散されるので、本人の元に届くギャラは少なかったことでしょう。
しかしそれだけの価値のあるレスラーになったという点が凄いことです。この時点でレスラーになって5年目になっているかどうかの時期なので、日本ではまだまだ若手レスラーの域を出ていない頃です。
バディ・ロジャース選手はもちろん、馬場選手だからこそ観客は見に来るわけで、アメリカで客を呼べるレスラーは馬場選手以外いませんでした。
これは力道山であってもアメリカでは無名選手であるし、同期のアントニオ猪木選手もアメリカ修業はしましたが、馬場選手のように大都市をサーキットするものとは別で、あまりプロレスが盛んでない地域中心という事から分かるようにこの時点で同期でありながらその立場は大きく開きました。
当時の日本のプロレスは力道山がトップに君臨していましたが、力士出身だった為に相手の技を受けて、相手の良さを引き出すという攻防よりも、格闘技の激しさを前面に押し出した原始的な格闘プロレスだったと思います。
原始的な格闘プロレスという意味ですが、これは勝敗の決まった試合中に、成り行き次第でガチになってしまう事で、アメリカでこれをやったらレスラーはたちまち干されてしまうでしょう。
日本ではプロレスに真剣勝負の概念が織り交ぜられているので、突然ガチの試合が起こりえます。
外国のプロレスでもこれはゼロではなく、勝敗のシナリオ、これをブックと言いますが、シナリオ破りするレスラーもごくたまにいて、チャンピオンや団体のトップレスラーはガチにはガチで対応する実力もなければなりません。
昔のチャンピオン、ルーテーズやハーリーレイス、日本でも力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、長州力など、プロレスの攻防も出来つつ、ガチにも対応出来ました。
今年亡くなられた往年の名レスラーである、デストロイヤー選手はレスリング出身でプロレスのセオリーを身に付けた、相手の良さを引き出せる本当の意味でのプロでした。
晩年の力道山とデストロイヤーはライバル関係で試合も組まれましたが、デストロイヤーが四の字固めを決めていると、力道山が顔面に空手チョップをして歯が折れたそうです。
新人レスラーが歯を折るような技をしてきたら、恐らく控室で先輩からボコボコにされるでしょう。
力道山がトップレスラーなので大事になりませんでしたが、要するにこの頃の日本のプロレス界はアメリカに比べると未熟な要素に満ちていました。
その為にアメリカでメインイベントを張るようなジャイアント馬場選手は唯一日本でアメリカの洗練されたプロレスが出来る選手だったと言えます。
力道山亡き後の日本プロレスはアメリカから帰国したジャイアント馬場をエースに据えました。
日本のプロレスファンはこれまでの力道山プロレスしか知らなかったので、ジャイアント馬場が見せるダイナミックなアメリカナイズされたプロレスに驚きをもって人気を博しました。
ジャイアント馬場人気もあって当時大人気だったプロレスに日本テレビとテレビ朝日の2局が放映していました。
そして日本テレビはジャイアント馬場の試合を、テレビ朝日はアントニオ猪木の試合をそれぞれ流していました。エースはジャイアント馬場ですが、兄弟子も沢山いる状況だったので、当然のことながらレスラー同士の嫉妬や妬みが渦巻きます。
その状況にジャイアント馬場選手は嫌気が差していた頃、日本テレビがバックアップして独立の話が出てきました。
日本テレビからのバックアップに対し、その千載一遇のチャンスに乗ってジャイアント馬場は全日本プロレスを旗揚げしました。
しかし当時34歳。本来ならばプロレスラーとして全盛期のはずですが、その頃の写真を見てみると20代の頃に比べて腕の筋肉や上半身の筋肉がだいぶ衰えが見られます。
またトップレスラーだったので、上から言われなくなった分、20代の頃のような筋トレはしていないのも筋肉の衰えの原因の一つだったのではないでしょうか。
身長が2メートル9センチ。この本によるとホルモンの異常分泌による巨人症だったので、巨人症の方は肉体的な老化も早いそうです。
それに対しアントニオ猪木も新日本プロレスを旗揚げしますが、その時29歳。まさに肉体的にも、技術的にも全盛期と言って良いでしょう。
次の映像は1976年にカリフォルニアで地元の観客の前でトレーニングを披露するアントニオ猪木ですが、当時33歳。全盛期のコンディションをキープしています。
無駄な贅肉の無い肉体、ヒンズースクワットの速さ、ブリッジの柔軟性。どれをとっても素晴らしい動きです。
ジャイアント馬場はアメリカでの知名度と日本テレビからの潤沢な放映料を武器にアメリカの一流レスラーを呼んで、豪華な試合を組むことが出来ました。
それに比べアントニオ猪木はアメリカでの知名度はゼロ。旗揚げ当初はテレビ放映もなく、お金も無いのでヨーロッパや諸外国の2流レスラーしか呼べませんでした。
しかしタイガー・ジェット・シンというレスラーをプロデュースしたり、ただのキン肉マンだったハルク・ホーガンにレスリングを教えて一流レスラーに育てたりと、アントニオ猪木にはプロデューサーとしての才能がありました。
しかしジャイアント馬場は力道山時代から続く、日本人対一流外国人というプロトタイプから抜け出せず、新日本プロレスとの興行戦争では完敗でした。
僕は子供の頃に熱心なプロレスファンでしたが、タイガーマスクやハルク・ホーガン、アンドレ・ザ・ジャイアント、長州力、藤波辰爾と、華やかな新日本プロレスは本当にワクワクして楽しかった事を覚えています。
それに比べ全日本プロレスというのはリック・フレアー、ハーリー・レイス、ファンクス兄弟、アブドーラ・ザ・ブッチャーなど今見れば凄いメンバーだし、試合も凄いものでした。
しかし子供の目から見ると当時の全日本プロレスの試合は正直退屈でした。それは今思うと、外国人選手は母国でも有名だし、稼げていたのに、それ以上に日本のギャラが良いので、怪我せずに日本で無難な試合をして、帰国しようとしていたのではないかとも思います。
また新日本プロレスが20代の選手、例えば長州力と藤波辰爾をライバル関係にして、争わせるという方向性や、タイガーマスクというもの凄い運動神経の選手をスター街道を歩かせたりと見事な戦略でした。
全日本プロレスの場合、ジャイアント馬場が40代後半まで後継者のジャンボ鶴田にエースの座を譲らなかった事も、全日本プロレスの人気が今ひとつだった原因だと思います。
ようやくジャイアント馬場からジャンボ鶴田へエースの座を譲った時にはジャンボ鶴田も30代になっていました。ジャンボ鶴田はアマチュアレスリングを始めて数年でオリンピックに出場した位の、ジャイアント馬場を超える逸材でした。
それだけに20代でエースの座をジャンボ鶴田に譲っていたら、全日本プロレスはもっと人気が出ていたことでしょう。
要するにアメリカの最先端のプロレスを身に着けたジャイアント馬場が、いつの間にかその成功体験から抜け出せずに、時代遅れのプロレス観のままだったと、この本では結論づけています。
僕の最も古いジャイアント馬場の記憶を辿っても、恐らく40代だったと思います。やけに腕の細いレスラーだなと子供ながらに思いましたが、20代の全盛期を知らない僕だったので、皆さんの記憶も多分40代以降のジャイアント馬場だったのではないかと思います。
しかしこれは本来のジャイアント馬場ではありません。20代でアメリカマットでメインイベンターになって、肉体も鍛錬によって筋肉隆々の身体をもっており、運動神経が良かったので軽々ドロップキックをこなす凄いレスラーがジャイアント馬場だったのです。
また、日本人として力道山でもアントニオ猪木でも、現代に生きるレスラーでも辿り着けなかった唯一無二の日本人レスラーこそジャイアント馬場しかいません。
僕を含めてそんな凄いレスラーだったと思わなかった方はかなりいると思います。
もしもこの記事をご覧になって、そんな凄いレスラーだったのか、もっと知りたいと思う方には 1964年のジャイアント馬場を手にとって僕と同じ興奮を味わってもらいたいです。
※アイキャッチ画像はYuri_BによるPixabayからの画像です。
【書評】木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか - ヤスログ |